
鹿児島県霧島市からの電話
令和に入ってすぐのことです。思いがけない電話がありました。鹿児島県霧島市のAさんという方からです。霧島市といえば忘れられない記憶があるものの半世紀も前です。いぶかしくどなただろうと聞いてみると、以前北海道に住まれていて面識もあった方でした。電話口でお話をしながらも「霧島」という響きが脳裏を駆け巡りました。あぁ,あの霧島か。しかもすぐ傍ではないか。信じられないようなことが起きていると感動で胸がいっぱいになりました。
仕事の内容は故郷北海道の土地と建物の相続と売買の件でした。よく聞いてみると行政書士も対応できる内容でしたので喜んでやらせていただきました。
霧島高原ユースホステル
霧島での出来事を少しご紹介させてください。
写真にある「われら太陽の家族」の初版が発行されたのは1969年(昭和44)の10月です。私が購入したこの本は1971年9月の第4刷です。日本縦断の旅に出たのが1971年の9月頃だったと思いますので、ちょうどその旅のスタートと重なります。
大阪での近畿大学聴講生や、ガラス工場、新聞配達、ウエイター、競艇場や甲子園球場のガードマン、パチンコ屋での住み込みなどいろいろなアルバイトを転々としながら、翌年1972年の1月に九州に向かいました。
ヒッチハイクで旅を続けながら、阿蘇の草千里でサウンド・オブ・ミュージックの世界を想起し、その後宮崎県経由で鹿児島に向かうことにしました。えびの高原を超えて、高千穂岳の威容を車窓から見ながら、もうとっぷりと暮れた霧島山中のユースホステル前に降ろしてもらったことを今も鮮明に覚えています。
時代が時代です。たくさんのヒッピーやカニ族や若い旅人であふれていました。とりあえず少しバイトとをと思って、お願いしてみたら思いがけなくすぐOKが出ました。これが、室蘭清水が丘高校の音楽の教師、成田雄二郎先生が熱く語っていた「家族憲法」の古木家が経営するユースホステルとはまったく知りませんでした。
ヘルパー生活は過酷なものでした。朝から晩まで重労働。しかもヘルパー料はほんとうに雀の涙ほど。信じられないような金額でした。たしか300円位だったように思います。それに寝る部屋は乾燥室で湿気と乾燥が交互にやってきてとても不快でした。たくさんホステラーのベッドが空いているのに、その部屋で寝なければなりませんでした。でも、日中にあまりに働くので泥のように倒れ込んで寝ると、もう朝になっています。
こんな生活はとても続けられないと思う一方で、自分の身体にみるみるうちに力がついてくるのがわかりました。あまりにおなかがすくので、ホステラーへの食事の準備をしながら、つまみ食いをする甘い煮豆などが、すぐエネルギーになるのを感じるのです。美味しくてたまりませんでした。そして、一服するタバコが、澄み切った高原の空気と若い身体にくらくらするほどの陶酔感を与えました。
万国旗を高いポールに朝晩上げ下げするのですが、厳寒の中、遠く錦江湾の向こうに鹿児島市の明かりが見えます。なんとなくとても楽しかった。

学んだこと
そして、まさにこの本をその当事者たちが経営するユースで購入して読んだのですが、なんだ、実体はこんな奴隷のようにこき使う資本家のようではないか。ホステラーのミーティングもないし、ホステラーに出す食事もお粗末極まりない、書いてあることと随分違うではないかと内心思ったものです。
この本の記述は、今では通用しない高度成長期の自己陶酔のような感じも与えます。当時の私が読んでもそう感じるところがありました。今の時代に、そのまま内容が受け入れられるとはとても思えません。
一方で、感じるのは、彼らは本気だったということです。額面通りに受け取れるというところがほとんどです。当時の自分の甘さと、彼ら家族の厳しい日常、困難を自力で乗り越えてゆく姿が良く出ているかなと感じます。そして時代が彼らを後押ししていました。旅、語学、山、泳ぎ。冒険と未知、夢の世界旅行、儲かる仕事が広がっていました。
長男の康太郎さんや二男の圭介さんには会いませんでしたが、もう古木俊雄さんの経営する旅行会社の専務や支配人だったんですね。余談ですが、私の弟が新婚旅行でヨーロッパに行った際の旅行社がグローバル、まさにこの家族が経営する会社でした。
三男の謙三さんは、私が会った時は若干24歳。霧島高原ユースホステルの経営者でした。四男の修治さんは、好感が持てました。冬休みで帰省中でしたが、控えめな口調で礼儀正しく、この方はいい人だと直感的に思いました。同じ年でした。
ガイアの夜明け
その後日を経て1996年(平成8)10月。25年ぶりに私は一人で、再び阿蘇の草千里と霧島高原ユースホステルを訪れました。草千里は当時感じたような果てしない草原ではありませんでした。そして、ユースホステルは既に解体されて跡形もありませんでした。でも、そこには私の青春の日がありました。草千里の草原を、サウンド・オブ・ミュージックを歌いながらさまよい、錦江湾を遠くに見ながら、跡地で、あの日々を想いました。
今も(株)グローバルは個性的な旅行業者としてTV「ガイアの夜明け」などでもとりあげられています。古木謙三さんは会長。あの修治さんは、以前の情報ではヨーロッパと日本を文化でつなぐ仕事をしていました。
私は、今、全く違う道を歩んでいますが、このようなかつての体験が心を弾ませます。一本の電話が一気に私を青春時代に引き戻してくれました。Aさんに感謝です。